我ら、俗世間のゾーン その2

(ひとつ前の記事からの続きです)

私はこの春から久しぶりにオザケン作品を繰り返し聴いていたのですが、
そんなある時ふと、「徒労」という言葉が思い浮かびました。
正確には、歌人穂村弘さんが『世界中が夕焼け』という本の中で
「徒労」について語っていた内容についてなのですが。
穂村さんの、いわば「徒労観」が面白いな、と思ったので、少し引用してみますね。

 徒労って神様にはないゾーンなんですよ。肯定的な意味でです。(中略)
 レイモンド・チャンドラーの小説が僕は好きなんだけど、例えば、おかわりを作るために客の分と自分の分のグラスを下げる途中で、どっちがどっちのグラスかわからなくなってしまった、みたいな描写があります。そんなこと書いても意味がない。でも、そういうことは現実にはあるし、そこに人間の人間たる根拠を感じます。(P. 220−221)

神様にないゾーン?!
この文章を読んで、穂村さんの視点に驚きました。
神様にないゾーンとか、考えたこともなかったから。
「徒労」についても別段考えたことはなかったけれど、
そう言われてみると、徒労でさえも、ひょっとしたら
今生きているからこそ可能な、かけがえのない体験なのかも!?と思えてくる。
いや、何かが徒労に終わった時って、実際とっても虚しさを感じるのですが(笑)。
これはホムラさんのマジックなのか、それとも。
かけがえないと感じるのは、人間のゾーンでは、いのちに終わりがあるからだと思う。

どうして穂村さんの文章が思い浮かんだのか考えているうちに、
オザケンの「LIFE」や、その他の作品
(〝プラダの靴が”で始まる「痛快ウキウキ通り」など)の中には、
「神様にないゾーン」がたくさん、多分意識的に描かれているからだ、と思い当たりました。
それはたぶん、いってみれば「俗世間の俗っぽさの中で生きる」というゾーン。

このゾーンでは時間は有限で、
その中で人は出会ったり別れたり、奪いあったりわかちあったり、泣いたり笑ったり。
他者と折り合いをつけたり、つけられなかったり、
くだらないことで腹を立てたり笑ったり。
人間に特有の、そのゾーン。

ひとの心は、いろんな感情や欲望を、同時に抱えている。
その俗っぽい人間のありさまの莫迦莫迦しさ、愛おしさ、醜さ、美しさ。
オザケンのこのアルバムは、心のなかに俗っぽさも清らかさも併せ持った、
愚かでおそらくチャーミングな(?)私達普通の人々が俗世間で生きる時間はかえがえないものだ、ということをポップに歌った名盤だと思う。
私にとっては世界遺産(笑)。

ちなみに、この記事のタイトルは、
オザケンのライブアルバム「我ら、時」をもじって付けました。
ファンキーなグルーブに驚かされる「天気読み」、
名作すぎる「さよならなんて云えないよ」などなど、
聴きごたえたっぷりです。

我ら、時?通常版

我ら、時?通常版