どういうわけか

ふたつ前の記事に書いた本ってエッセイ集なんだけど、
それを心のなかで笑ったりしみじみしたりしながら読んだ。
「ビシャビシャは続く」というエッセイの中では、「どういうわけかいつも自宅の洗面台がビシャビシャになってしまう」ことを著者が細野晴臣さんに相談したというエピソードが語られているのだけど、「『気にしないのが一番だよ』というお答えをいただいたので気にしないでいたらどんどん洗面所がビシャビシャになる一方だ」という一文に特にグッときた。気をつけていてもどうしてもビシャってしまうのだそう。
私、細野さんの著書を読んで以来、彼をひそかにとても尊敬しているのだけど、「いやそれ気にしようよ!」とココロの中で反射的にツッコミを入れてしまった。でも細野氏がそう おっしゃるのなら、そこに何か深い意味があるんじゃないかとも思えてくる。

著者は洗面台のエピソードの中で自らを「洗面台ビシャ男」とネーミングしているので、私もここでは彼を「ビシャ男さん」と呼んでみることにする。
で、なんか・・・思ったんだけど、ビシャ男さんってちょっとぼのぼのに似ているような気がした(ここから妄想☆)。
ビシャ男さんが、
「どうして洗面所はビシャってしまうんだろう
 どうしてビシャってしまうんだろうったら」
とつぶやきつつ、シャチの長老さま(ここでは細野氏)に相談しに行き、
「気にしないのが一番じゃよ」
とのお答えをいただいたので、その教えを守って気にしないでいたら洗面台がさらにビシャってしまい、
「でもやっぱり洗面台はビシャってしまう ビシャってしまうんだったら」
とつぶやきつつ、目をつぶって涙を流したり、汗をとばしまくったりしている姿を想像してしまった。あ、でも想像の中ではビシャ男さんはぼのぼのの姿なんだけど。

でもさー、後から思ったことがあるんだよね(いきなり何故かタメ口に・・・)。
唐突に自分のことを振り返ってしまうんだけど、私は小さい頃からうっかりもので、そのせいで時々何かしでかしてしまう。これはもう、気をつけていても治らないし、どうしようもないんだな。だから、自分がうっかりしていることはもう、気にしないのが一番なんだろう。もちろん、できるだけ しでかしたりしないように工夫したり、気をひきしめたりしなきゃいけないけど。でも、それでも何かやってしまった時には、誠実に事後処理するしかないような気がする。ビシャ男さんもどんなに気をつけていても洗面所をビシャらせてしまうのだから、ビシャらせたらその都度水気を拭き取るとか、そういう対応をするしかないように思う。これって、まとめていうと(?)うっかりとか「ビシャらせてしまう」こと自体は気にしないのが一番、ということなのだろうか。

このエッセイ、すごく近くで著者が話しかけてくれているような語り口もいいな、と思った。
著者のやわらかでおだやかな声が私も大好きなのだけど、そのためなのか文体との相乗効果なのか、いつの間にか著者の声で文章を読んでしまっているときがあって、時々頭の中で聞こえるそのリアルで柔らかな声にびっくりしてしまう。私の結構長い読書生活の中で、そんなことは初めてだ。

おバカでくだらないエピソードなんかも満載で(←誉めてます☆種類にもよるけどそういうの好き)、励ましのことばなんかが書いてあるわけじゃないけど読んでいると元気が出てくる。そんなネタの中では、著者が「ドラゴンボール」の孫悟空のイラストをかくと植物のアロエになってしまう、というのが私にはツボだった。
下ネタもいっぱいなのだけど不思議と下品な感じはなく、むしろ何か品が漂っているような気も。一方で、深い思索の果てに導き出されたようなことばも飾らない感じで綴られていたりするので、そんな文章にふれるといつの間にか自分もココロの奥底のゾーンに行ってしまい、ハッと気づくとしみじみと考え事をしていたりするのだった。

このエッセイを読んで、うまく言えないのだけど、おバカなエピソードとかくだらないネタと、感動的なエピソードとに優劣はないんだな、と思った。どんなエピソードもただただ生じてきて、その持ち主の意識や無意識に入り込み、その人をかたち作る要素になっているのだろうと思う。

そういえば「ほしのさん」と「ほそのさん」って、おなまえ似てるんだ。。。

そして生活はつづく (文春文庫)

そして生活はつづく (文春文庫)



聖☆おにいさん」のブッダさまの声の役も、すごくあっていると思う。