「赤裸の心」から

朝日新聞の月曜の夕刊は、文化面のテーマが音楽なので、毎週楽しみにしています。
昨日はびっくりしました。おぉ、エレカシ宮本さんのインタビュー記事が!

不惑過ぎ 丁寧にまっすぐ」という見出し。頭に片手を当て、考えながら話しているようにみえる宮本さんの写真も載っていました。
プロデューサーの YANAGIMAN から「丁寧に、そっと、赤ちゃんに触れるように歌ってください」 とアドバイスと受け、「触ったことないし、わかんないよと思いつつ、言われた通りにすると、そっと歌っているはずなのにパワフルな歌声になった」というエピソードが語られていました。
また、インタビュアー(神庭亮介さんという方)は、2009年に発売されたエレカシの3枚のベストアルバム(「EPIC 創世記」、「PONY CANYON 浪漫期」、「EMI 胎動期」)にちなんで、今のエレカシは何期なのかを宮本さんに尋ねていました。それに答えた宮本さんは、どんな風に歌を歌い続けていきたいのかを続けて語っていました。以下、引用です。

 「うーん、円熟期とは違うし……」と頭をかきむしって熟考した後、こう続けた。
「ストレート期、ですかね。不惑を過ぎて迷いが減った。色んなものを詰め込むような、若い頃に目指したカッコ良さとは違う、自然で無理がない感じ。人間の持っている一番やわらかで赤裸の心を、生々しくストレートに歌い続けていきたい」

この記事は、会員登録すれば朝日新聞のサイトから読めるそうです。
http://www.asahi.com/news/intro/TKY201206040194.html?id1=3&id2=cabcagaf

同じ月曜日、この記事を読む前だったか後だったか忘れたけど、私は穂村弘さんの「短歌の友人」という歌論集を読んでいました。
ページにたくさん線を引きながら読んでいたのですが、なかでもその日、目にとまったのは正岡子規の歌を引用して語っている以下の部分でした。
 

 私には、子規のこの一連で直接的に扱われているモチーフ、<われ>の「生のかけがえのなさ」こそが近代以降の短歌における「ひとつのもの」だと思われる。「生のかけがえのなさ」とは、表現のモチーフとしてあまりにも根源的すぎて、何も云ったことにならないようにすら感じられる。だが、子規の連作ほどには明確に言語化されていない場合であっても、およそ秀歌とされる作品の内部には、常に同じモチーフがありありと生きて存在していることを我々は経験的に知っていると思う。(p.180)

こころの内奥にあるものを作品として表現し、匿名の立場はとらずにさらし続けるのは、普通に考えれば並大抵のことではない。それでもそうせずにはいられないのは、どうしても他者に伝えたりわかちあったりしたい、消えない思いがあるからにちがいない。いつか消えてなくなる「私」だからこそ「生のかけがえのなさ」を強く感じるし、それを「あなた」や「あなたがた」に伝えずにはいられなくなる。そうした「赤裸の心」を表現した純度の高い作品はきらめきを持っているし、時には受け手の心をえぐる鋭さを伴って私たちの赤裸の心に触れてくるのだと感じる。

「こころをさらす」ということから私が特に強く連想する曲は2つ。
エレカシの「ワインディングロード」とスガシカオ「POP MUSIC」。
「赤裸のこころ」から表現されたものには、やっぱり普遍性を感じる。